ゆえあって「源氏物語」現代語訳を読む。
いま、ゆえあって角田光代の「源氏物語」現代語訳を読んでいる。比較するものが欲しいので、久しぶりに谷崎潤一郎訳の「源氏」も読み始めた。
本屋で見たら、ものごっつい厚さと重さだったのでkindleで購入した。
角田訳の「源氏」の大胆さ。
まず「桐壺」巻の冒頭で驚く。
いつの帝の御時だったでしょうかーー。
その昔、帝に深く愛されいてる女がいた。宮廷では身分の高い者からそうでもない者まで、幾人もの女たちがそれぞれに部屋を与えられ、帝に仕えていた。
帝の深い寵愛を受けたこの女は、高い家柄の出身ではなく、地震の位も、女御より劣る更衣であった。女に与えられた部屋は桐壺という。
谷崎の「桐壺」の冒頭はこうだ。
何という帝の御代のことでしたか、女御や更衣が大勢伺候していました中に、たいして重い身分ではなくて、誰よりも時めいている方がありました。最初から自分こそはと思い上がっっていたおん方々は、心外なことに思って蔑んだり嫉んだりします。その人と同じくらいの身分、またはそれより低い地位の更衣たちは、まして気が気ではありません。
冒頭だけでこんなに違う。角田訳は、「桐壺という部屋を与えられていた更衣だから、桐壺更衣と呼ばれていた」ことを冒頭で説明してしまっている。
文体の工夫もユニークだ。「いつの帝の御時だったでしょうかーー」と、<敬体>で語り始めたとたんすぐに「その昔、帝に深く愛されいてる女がいた」と<常体>に変化。その後、終始<常体>で語られていき、巻の最後にまた<敬体>の語りの一文が入る。敬語を極力排し、かつそれが<常体>のため、クールな印象を与えている。キビキビ、サクサクと読み進められ、十分に現代語に訳されている。
谷崎訳と比較すると、谷崎訳が原文に忠実かということが際立つ。
大河ドラマのナレーション方式の「源氏物語」
角田訳の文体の使い分け、巻の冒頭と終わりに<敬体>の語り手の出現って、大河ドラマや朝ドラのナレーションみたいな効果があると思う。
たとえば、大河ドラマ「武田信玄」のナレーション。「今宵はここまでに致しとうござりまする」というナレーションを務めた若尾文子の決め台詞のような。ひとつの巻の冒頭と終わりに<敬体>の語り手がナレーターのような効果があるのだ。
角田訳の欠点は、やはり風情に欠けること。敬語を極力排し、<常体>でキビキビサクサク進むため読みやすいけれど、「源氏物語」の世界観を愉しむ、というのとは違うと思った。
谷崎訳を改めて読んで。
角田訳と比較するために谷崎のも久しぶりに読んでみた。「桐壺」から「若紫」まで一気読みしてしまった。これでっせ、これでっせ、典雅な雰囲気に包まれる高揚感!
特に「夕顔」の巻とか超面白い。きゃーきゃー!超常現象きゃー!えーどうなるの?どうなっちゃうの?と、わくわくしながら、どんどん読み進む。
そして改めて、「長恨歌」や「伊勢物語」特に「竹取物語」の影響下にある作品なんだなーということがわかった。夕顔が超常現象で死去するこの日、8月15日でびっくり。かぐや姫が月に還る日ですよ。紫の上も8月15日に亡くなりますよ。夕顔も紫の上も、出自は高いけど、現実的には安定した身分を維持していない女、ミステリアスなバックグラウンドを持つ女はかぐや姫に充てられて、旧暦の中秋の名月の日に死ぬのだ。
谷崎が「細雪」は「源氏物語」の影響下にある、と言われることを嫌った理由もわかった気がした。谷崎は、紫式部よりも自分のほうが才能があるって豪語していたらしいが、確かに谷崎のほうが原典を複雑に操作できる。
やはりもっと古典を読もうと決意するのであった。
電子書籍が便利ですよ。谷崎訳は優雅だけど、じゅうぶんサクサク読める。