美貌録

美容、装い、読書、映画など、心と身体を動かし轟くものを集めて、束ねて書くchisa/千祥のブログ・ディレクトリー。

小津安二郎の映画が見たくなる時は、喪失感を共有したくなる時だ。

なぜか無性に小津映画が観たくなる時がある。

ときたま、どういうわけだかわからないが、小津安二郎の映画が観たくなるときがある。紀子三部作もいいが、実はそれ以外の作品のほうが好きだったりする。一番好きな作品は「秋刀魚の味」。小津安二郎の遺作となった作品だ。ストーリーは相変わらず、と言うべきか、適齢期の娘を嫁に出すか出さないかで悶々とする父と、やめも暮らしをさせるのが忍びなくて、結婚する機会を自分から掴めない娘の話。母はいつ亡くなったんだろうか、詳細は語られないが母はおらず、娘が母親代わりとなり、父と弟の日常生活の面倒を見ている。結局、周囲の尽力もあって、娘は結婚する運びになり、父がひとり侘しさを託つ。

 

 

 

娘役の岩下志麻が可憐だし、笠智衆の父もいい味。バーのマダム役の岸田今日子もなんだか可愛らしい。バーで偶然出会う加藤大介に「艦長、艦長じゃないですか?」と声をかけられる笠智衆は、どうやら戦時中は海軍士官で艦長まで務めた人らしい。艦長になるなんざ、海軍のエリート中のエリートだ。

 

小津安二郎の映画には家族にいつも戦争による「欠け」が生じている。紀子三部作ではいつも次男が戦死という設定だし、「秋刀魚の味」も母がいない。戦死したり、爆撃で亡くなったりと、当時はどの家庭でも誰かが亡くなっていたことも影響しているのだろう。戦後の、普通の家庭は、どこもそうだったように。

 

「宗方姉妹」を見た。

 「宗方姉妹」は紀子三部作の合間に撮影された作品だ。父は笠智衆、母はいない。姉の田中絹代は戦後失職している夫を支えるために銀座でバーを経営。妹の高峰秀子はそれを手伝っている。姉は働かない夫を頑張って支える古風な女。義兄を不甲斐なく思い批判する現代っ子の妹。この姉妹、まるで性格が違うのだ。

 

この映画でいつも語られるのが、古風な姉VS現代風に染まっている妹、その対立だ。姉を批判する妹に、「いつまでも変わらないこと」「古くならないことこそが新しい」と諭す姉。この新旧の対立にフォーカスされがちなのだ。

 

でも私は、そこにフォーカスするよりも、姉の持つレジリエンスな精神性に興味を持った。

 

クライマックスに、姉はかつての思い人、上原謙に別れを告げる。夫の急死によって暗い影を残したまま結婚するのは嫌だと言って。これは本音であり、方便なのだと思う。上原謙の優しさは、八方美人な、優柔不断な優しさなのだ。だからかつても、一緒になることがなかったのだ。その事実を飲み込んで、去っていく姉が、爽やかで強い。

 

姉妹の新旧の対立よりも、姉の、事態に飲み込まれ、望ましくない状態にあっても、自分を見失わない力を持っていること。そしてそれを決して正義を振りかざしたり、押し付けがましくなくあることに、感動する。

 

 

喪失感をそっと共有したいときに観たい小津。

「宗方姉妹」のクライマックス、田中絹代が晴れ晴れとしていて良い。こちらも晴れ晴れとした気持ちになって、心地よい。古風な女なんかじゃなく、十分に新しい、自立した女性像があったと思う。

 

戦争で沢山の人が死んで、それはウチだけじゃないよね。どこもそうなんだから。ウチだけが苦しいんじゃない。どこもそうなんだから。そういう共通した概念を持ってみんな生きていた時代。みんななにかを(家族を、恋人を、友人を、それまでの暮らしを)喪失する体験を共有していた時代。

 

小津の描く家族には、暮らしがある。今日は昨日の続きであり、今日が終われば明日が来る。喪失が前提としてある物語だが、暮らしはそこにある。みんな何かを失ったけど、今日も普通に暮らしていくんだよいいね?という小津の描く家族観に、癒される。

 

私も普通に暮らそうと思う。

 

ときどき無性に小津作品が観たくなってしまうのは、私が抱く喪失感を、小津の作品で描かれる家族と共有したくなるときなんだと思う。

 

宗方姉妹

宗方姉妹

 

 

 「宗方姉妹」の父は、戦前は満鉄で働いていた、というセリフが出てきた。田中絹代の夫も、元カレも大連にいて、星が丘というリゾート地で遊んだというセリフも。登場人物は全員、戦前は満州にいたという設定なのか?大佛次郎の原作を読んでないのでわからないが。